「あいち2025」ストーリーズ
レポート
ラーニング・ラーニング vol.07
映画とともに読み解く、イスラーム文化圏と人々
- ラーニング
- 愛知芸術文化センター
2025年10月4日(土)
【vol.07】『映画とともに読み解く、イスラーム文化圏と人々』
ゲスト:藤本 高之(イスラーム映画祭主宰)
「ラーニング・ラーニング」vol.07
「あいち2025」に通ずるテーマを参加者とともに考え深めていく「ラーニング・ラーニング」。
第7回目はラーニングチームメンバーで写真家の黑田菜月の企画で、イスラーム映画祭主宰の藤本高之さんをゲストにお招きし、1995年のアルジェリアを舞台にした映画『私は今も、密かに煙草を吸っている』の上映とレクチャー「映画における当事者性」を行いました。
今回は、映画鑑賞とその背景となるアルジェリアの歴史と時代背景のレクチャーを通して、物語を超えて映画がどのような思いで、そしてどのように作られたかに考えを巡らせることを目的に企画しました。黑田自身も、これまでイスラーム映画祭に行くことを通して、映画の中で起きていることを現実の世界と繋げていくような鑑賞と学びの経験をしてきました。
ラーニング・ラーニングの企画を膨らませていく中で、このプログラムにイスラーム映画祭をぜひお呼びしたいと考えていました。
イスラーム映画祭とは?
イスラーム映画祭とは、中東、北アフリカ、アジアに広がるイスラーム文化圏の国や地域を舞台にした映画、そこで生活する人々を描いた映画を藤本さんが全額自己負担で上映する特集企画です。2015年12月にスタートし、これまで、渋谷ユーロスペース、名古屋ナゴヤキネマ・ノイ、神戸・元町映画館の映画館で行ってきました。10年目の2025年5月の開催を最後に休業に入りました。
きっかけは、藤本さんが20代の頃に1年数ヶ月、バックパッカーとしてマレーシア、バングラデシュ、インド、パキスタン、イラン、トルコ、ボスニア・ヘルツェゴビナなどムスリムが多く暮らす国々を周遊したことに始まります。もともと映画のイベントに関わっていたことや、非欧米圏の映画に対する興味があったことなども後押しし、映画祭を立ち上げることになりました。
また、藤本さんはレクチャーの冒頭で、イスラムとは世界中で多くの人々が信仰している宗教の名称であり「イスラーム映画」というジャンルがあるわけではないということも強調されていました。
映画『私は今も、密かに煙草を吸っている』とその背景
今回のラーニング・ラーニングは芸術祭の開催期間中に開かれました。会場は愛知芸術文化センター12階にある「アートスペースA」、前半は映画の上映会、後半は藤本さんによるレクチャーという2部構成で行われました。まずは上映された映画について、あらすじと制作背景に触れておきます。
「1995年、アルジェ。ハマムで働くファーティマは出勤途中、爆弾テロを目撃する。ハマムでは、同僚のサーミヤが夢に現れた男性への憧れを語る。姪のライラは家族をテロで殺されて以来、声を失っていた。そんな時、妊娠している16歳のマリヤムが兄の暴力から逃れてくる。ファーティマは他の女性客にバレないようマリヤムを匿うが…。」(『イスラーム映画祭9 ARCHIVE 2024』より)
『私は今も、密かに煙草を吸っている』(原題:À mon âge je me cache encore pour fumer)は、アルジェリア出身の女性監督ライハーナ・オーバーメイヤーによる2016年のフランス・ギリシャ・アルジェリア合作映画です。物語の舞台は1995年、内戦下のアルジェリア首都アルジェのハマム(大衆浴場)で、一日を通して入浴に訪れた女性たちの姿を描きます。
ライハーナ監督自身がフランス語で執筆した同名の戯曲(2009年初演)を原作としており、映画では、アルジェリア方言のアラビア語とフランス語の言語を駆使してギリシャやフランス在住のアルジェリア系俳優たちによって演じられました。
ライハーナはアルジェリア出身ですが、内戦の戦禍から逃れるため、90年代末にフランスへ亡命しています。本作は第17回ブリュッセル地中海映画祭でグランプリと批評家賞を受賞するなど国際的に高い評価を受けました。一方でその過激な内容ゆえに出身国アルジェリアでは上映禁止となっているそうです。
本作に登場する女性キャラクターは年齢や境遇、思想信条も様々で、その群像劇を通じて1990年代アルジェリア社会における女性の置かれた状況を多角的に描いています。例えば作中では、10代で望まぬ結婚を強いられ暴力に晒された末に夫の兄との不義密通に走った女性、政治活動ゆえに酸をかけられ離婚と避妊を咎められた女性、愛を夢見ながらも「処女証明書付きでなら嫁に貰う」という男性社会の偽善に晒されるマッサージ師の女性など、各人物のエピソードが綴られます。これらの絡み合う物語は、家庭内でも公の場でも女性を罰し抑圧する父権的な社会構造を浮き彫りにしています。同時に、登場人物同士の会話には生々しい本音やユーモアが織り交ぜられ、悲劇と笑いが紙一重のかたちで表現されます。本作は女性同士の対話劇を通じて、当時のアルジェリア社会に渦巻いた対立するイスラーム観(原理主義的な抑圧vs.近代的で自由を求める立場)をも赤裸々に描き出しています。
上映後は一旦休憩を挟み、再び会場でレクチャーを行いました。
センセーショナルな映画の結末をどう考えればいいのか、何か話したいけど、一体何から...というような、会場には少し重い空気が流れていたようにも感じました。
映画について・制作背景
休憩を挟んだ後には、藤本さんによるレクチャーが始まりました。
イスラーム映画祭の始まりを話した上で、いよいよ映画の話題に移ります。
この映画は、冒頭とクライマックスに効果的に映し出される美しいアルジェリアの風景を除いて、ほぼ全編にわたってハマムという公衆浴場が舞台になっています。
また、もともとは戯曲が原作だったこともあり、テンポのよい会話劇が印象に残ります。映画の中でハマムには子どもから高齢者まで幅広い年代の人々が集まっています。同じ地域の同じ浴場に来ていたとしても、彼らの生活環境や信仰への考え方、生い立ちは様々です。だからこそなのか、彼女たちは憤り、互いに主張し合います。
上映後のレクチャーパートでは、2度目の鑑賞となった黑田が「一つ一つの台詞ややりとりの背景に、複雑な状況があることが分かっていたので、頭がパンクしそうだった」とコメントしていたように、一見とりとめのない会話の中にさえ、歴史的な背景を想像させる奥行きを感じさせます。
その背景とはつまり、女性が極端に抑圧され、理不尽な暴力に晒され続けているという、1990年代に10年間にわたって続いた「アルジェリア内戦」という暗い現実のことです。「そうした状況を、初見から読み解くのはなかなか難しいかもしれない」と、藤本さんも仰っていました。劇中の登場人物たちはハマムからほとんど移動していませんが、その中で語られる話題は、価値観、願い、セックス、トラウマ、宗教や抵抗など幅広く、しかしだからこそ、そこには「自由」があるのだとも感じました。
また、この映画は制作の裏側を知ることによって、監督のその根底にある思いがより一層強く感じられます。
この映画に参加した俳優たちは、全員アルジェリアにルーツがあり、アルジェリア訛りやアラビア語、フランス語を使い分けます。また、制作スタッフは全て女性によって行われたそうです。
ハマムが舞台となっていることで俳優たちは肌を露出する必要がありました。それは、たとえ演技だとしても、信仰をもつものにとって大変センシティブなことでした。そのため、アルジェリア国内での撮影はできず、ギリシャの博物館のハマムを使用して撮影を行ったそうです。俳優たちのなかには本当に裸になっている人もいれば、下着を着用している人、タオルを巻いている人など、いろいろなパターンの人がいました。本人の意思も尊重しながら撮影を行っていたことがうかがえます。
2016年当時にこのような制作体制で臨んだことは、監督の配慮と同時に、女性スタッフだけで映画を作ることの意義を感じました。
映画の時代背景:アルジェリア民主人民共和国について
映画の内容を踏まえ、藤本さんからは作品の背景にも深く関わるアルジェリアの歴史的経緯についてお話しいただきました。
フランスの植民地時代にアルジェリアで生まれたフランス人には、アルベール・カミュ、ジャン・レノ、イヴ・サン⹀ローランなどが知られています。
1830年
フランスがアルジェリアを征服し、入植が始まる。以前はオスマン帝国の一部だった。フランスはアルジェリアを単なる植民地ではなく「本国の一部」とみなし、宗教や言語を奪う同化政策を徹底的に進めた。その苛烈な支配への抵抗として、のちの独立闘争が起こる。また、この時代を描いた作品として『アルジェの戦い』、『いのちの戦場 アルジェリア1959』などがある。後者はフランスが初めて自国のアルジェリア戦争を真正面から扱った映画として注目される。
1962年
アルジェリアが独立。FLN(民族解放戦線)による一党体制が始まる。
1988年
全国で民衆蜂起。
1989年
国民投票で新憲法が可決され、複数政党制が承認される。
1990年
イスラーム救国戦線(FIS)が地方選挙で勝利。ハマスのように、政治の腐敗や貧困に苦しむ人々を支援する草の根的な活動は、困窮する庶民を助ける存在として民衆の支持を集めた。
1992年
軍によるクーデターでFISが非合法化。欧米諸国も軍政を支持。これをきっかけに、体制(軍)とイスラーム主義勢力の間で内戦が勃発(〜2002年)。FISは当初政府要人を標的としていたが、次第に過激化した。武装イスラーム集団(GIA)が結成され、テロ活動が拡大していく。女子どもを含め、自らの教義に従わない人々を殺害するなど、暴力が日常化していった。この時代を主題とする映画作品に、『パピチャ』『神々と男たち』などもある。
この頃、世界各地で内戦が起きていたが、メディアの注目は主にヨーロッパのボスニア内戦に集中し、アルジェリアの惨状はほとんど報じられなかったという話も、現代の報道のあり方にも重なる。
1995年頃
映画『私は今も、密かに煙草を吸っている』の背景となる時期。
レクチャーでは、当時のアルジェリア国内では様々な分断が引き起こされ、対立し、暴力が蔓延していたことを理解することができました。そうした時代背景を踏まえた時、映画の中で口論していた「あなたのイスラムと私のイスラムは違う」という台詞が蘇ってきました。
「映画における“当事者性”」
映画を選ぶ際に気をつけてきたこと
レクチャーの最後に、藤本さんは、これまでイスラーム映画祭で上映作品を選ぶ際に大切にしてきた視点についてお話しされました。
それは、「この映画は、誰の目線でつくられているのか」ということです。
その国の出身者による作品なのかどうか。登場人物はどの言語で話しているのか。誰が語り、誰が語られているのか。
「その国の物語のはずなのに、なぜ登場人物は英語を話しているのか、ということもよくありますよね」という言葉に、これまで自分が観てきた映画を思い返しました。「『話せばわかる』という映画は受け入れられやすい。でも、それだけでいいのか」と藤本さんは問いかけます。例えば、アラブ女性やムスリム女性を、“貧しく、男性社会に抑圧された存在”、“家父長制やミソジニーの犠牲者”として描くことは、本当にその社会を理解することになっているのだろうか。あるいは、ヒジャーブは、本当に単純に「女性抑圧の象徴」と言い切れるものなのだろうか。
この視点に関連して、藤本さんは「レイラ・アハメド『ムスリム女性に救援は必要か』」という書籍を紹介してくださいました。この本は、「ヒジャーブを外しなさい」というリベラルな立場の主張が、本当に当事者であるムスリム女性のためになっているのかを問い直すものです。「抑圧されているから解放してあげる」という態度そのものが、別のかたちの支配や思い込みになってはいないか。いわば“リベラル・ファンタジー”とも言える視線を、批判的に見つめ直す内容です。藤本さんのお話は、映画を通して、私たちが無意識に持っている「見る側の視点」を問い直すものでした。
あるシリア人男性から届いたメッセージについて
ある日、藤本さんのSNSに、シリア人男性からメッセージが届いたそうです。
そこには、「あなたは善意でこの映画祭(イスラーム映画祭)を行っているのかもしれない。しかし、それがかえってイスラームへの誤解を広めてしまうこともある」と書かれていました。藤本さんは、この映画祭では当事者によって制作された映画を扱っていることを説明し、そのやりとりを通して、お互いに一定の理解にたどり着くことができたと話してくださいました。そして同時に、藤本さんはこうも付け加えます。「だからといって、“当事者でなければだめ”というわけでもない。なぜなら、当事者といっても、立場や考えは本当にさまざまだからです。」
さらに、印象的だったのは次の言葉でした。「“異文化理解”や“共生”という言葉には、注意しなければいけない。それは決して気持ちのいいものではない。そこには痛みや苦痛が伴うこともある。まったく理解できない、嫌いだ、と思う相手であっても、そういう人たちが生きていける場所を考えることが必要なのではないか。」それは、隣の人とだって全く異なる考え方を持つような世の中で、私たちが考え続けなければならない問いかけだったように感じました。
映画のラストについて
ヒジャーブが空に舞い上がるラストシーンは、アンチ宗教的なメッセージのようにも見える。しかし同時に、実際に「イスラム」を語る男性たちから酷い扱いを受けてきた女性たちが、現実に数多く存在することも事実である。
この映画に描かれている女性たちへの眼差しは、とてもあたたかい。それは、このラストシーンにも現れているのではないかと感じた。
ここで語られているのは、宗教そのものの是非といった話ではなく、その中で生きている個人への眼差しなのかもしれない。
レクチャーの終わりに藤本さんは、「”映画は世界を知る入り口”ということをよく言われるが、たかが一本の映画で理解できる世界などない。”当事者性”を考えるのもひとつのきっかけ。いろいろ観る、読む、そして聞くことが大切」と、まとめていただきました。そして最後に、イスラエルによるパレスチナへの侵攻がなされている中で、どのような行動が促されるか投げかけていただいたことも、このプログラムを現実の課題と繋げる重要な働きかけとなったと思います。
これまでのラーニング・ラーニングの中でも大ボリュームの内容に、当初は参加者とのディスカッションも予定していましたが、時間もオーバーしてしまったのでやむなくプログラムは終了しました。その後ラーニングセンター「へたち」へ移動し、参加者の方々と丸テーブルを囲んでお話しする時間も設けられました。また、プログラム終了後のアンケートにはこれまでにない熱量の感想が多く届き、参加者の方々が実際に考え続けていることを感じることができました。
ご参加いただいた方々、本当にありがとうございました!
なお、藤本高之さんによる書籍『イスラーム映画祭エンサイクロペディア 映画/イスラーム』(2026年2月10日発売)では、イスラーム映画祭で上映された作品を通して、イスラーム文化圏の社会や歴史を知ることができます。
「イスラーム文化圏の映画から見る世界」 2015年から2025年まで全国3都市で開催された「イスラーム映画祭」。10年間で上映した全102作品を世界10地域に分け、国別・年代順に完全網羅。気鋭のジャーナリストや研究者によるコラムを32本収録。 人種、国籍、言語を越えて広がるイスラーム世界の社会、歴史、ひとを知る1冊。
感想・コラム
今回、ディスカッションパートがなかったため、メンバーそれぞれに映画の感想やコラムを書いていただきました!(浅野さんは当日、別プログラムに参加のため断念)
村上:「リベラル」への問い
『私は今も、密かに煙草を吸っている』は、街中のヒジャーブが空に飛んでいく印象的なシーンで幕を引く。そこだけを抜きだして見れば、(藤本さんもレクチャーで触れていたように)イスラム教という宗教全体に対するアンチテーゼに見えなくもない。しかしサーニアやファーティマをはじめとする、それぞれに異なる立場を抱えながらも同じ浴場で体を洗い、時には団結して抑圧に立ち向かう女性たちの会話の応酬を浴びたあとでは、この光景全体をぼんやりと眺めるのではなく、空中に舞っているひとつひとつのヒジャーブの持ち主に対する想像力を働かせよ、と言われているようだった。
これは後のレクチャーの中で藤本さんが繰り返し強調していた「当事者性」という言葉を考える上でも重要だと思う。
たとえばムスリム女性には「貧しくて男性社会に抑圧された女性」「家父長制とミソジニーの犠牲者」といった「イメージ」が定着しているが、しかし果たしてヒジャーブは本当に女性の抑圧の象徴なのか? 非ムスリムのリベラルな人たちは熱心に「お前は抑圧されているんだからそのヒジャーブをとりなさい」と、ムスリムの女性の習慣を変えようとする。しかしそれは果たしてその女性のためになるのか、本当に? という問いに答えを与えられる「他者」は存在しない。
辻󠄀:安心をつくる「秘密」と「窓」
石造りの遺跡を利用した、今で言うところのサウナのような場所が物語の舞台である。登場人物は時に裸で、時に下着姿で、時に洋服を着て、家族から政治まで、驚くほどいろんな話を繰り広げる。浴場という視覚的、動線的にも外部から守られた場所でそれぞれの秘密をシェアし、小言や言い合いや大喧嘩が巻き起こりながらも基本的には皆同じ空間にいて同じような時間を過ごす。しかし同じ空間と言っても、床には段差があったり、美しくカーブした階段があったり、室内と室内を区切る壁があったりその壁に窓が穿たれていたり、政治的なバックグラウンドで対立する二人がその窓を介してシャンプーを貸し借りしたり。一つの浴場空間にはいくつもの小さな場所と時間があった。そのどれもが愛おしくどこか安心できる、そんな印象を受けた。同時に、この浴場の外側には黒ずくめの過激派の男たちが待ち構え、けたたましい爆弾の衝撃音が浴場に谺する。外界との接点となった入口の門には、その門扉自体に小窓が用意されていて、そこが実質的な物語の主人公ファーティマと外界とのコミュニケーションの起点になっていた。さて、今回ラーニングが掲げていたテーマは誰もが安心して楽しめる芸術祭の環境づくりである。安心を成立させる条件には、単に囲われた壁を築いて守られた空間を作ってそこに逃げ込めば良いということではなくて、そこには外界に対しての「秘密」と「窓」が必要なのかもしれない、という学びがあった。
野田:女性の自由
ハマム(公共浴場)という日常の場で、年齢、出自、境遇、思想が多様な女性たちが、互いの本音をぶつけ合い、さらけ出す対話のありようが実に生々しく、終始ハラハラしながらも、映像美も相まって一瞬にして物語に没入してしまった。中でも主人公のファーティマには感情移入せずにはいられない。彼女は常に怒っている。その矛先が社会の抑圧に向けられていることはすぐに理解できるが、同時に、ここに集う女性たちの「信仰」「暴力」「愛」「恐れ」「女であること」「願い」といった語りが、さらに追い討ちをかけるようにこの社会に生きることの苦しさを強烈に浮かび上がらせる。また、彼女は時に厳しい言葉で他者を叱りつけたりもするのだけど、妊娠した少女を必死にかくまい、いつも子どもには分けへだてなく優しい(それがなかなか泣ける...)。
彼女たちの、公に語れないことを仲間の前で語れること。社会の規範に逆らいながらも、他者を守り、自分の尊厳を失わないこと。その姿に、この映画が描く「女性の自由」を見た。
黑田:「芸術祭の内側からできること」
「映画鑑賞とレクチャー」と聞くと、もしかしたら大学の授業のような教育的な場を想像した方もいらっしゃるかもしれません。しかし、映画館はもちろん芸術祭の中で作品を鑑賞し、そこで学ぶことは、授業とはまた違う体験を促します。
今回鑑賞した映画は90年代のアルジェリアを舞台とする抑圧された女性たちの抵抗の物語でした。彼女たちはハマムの中で無防備に夢を語り、男性に憤り、宗教や暴力に辟易した感情を表します。上映後のレクチャーでは、そんな彼女たちの語りの背景にある複雑さを理解し、映画の話としての解釈に留まらない学びを得ることができました。それは、プログラムの後に配布したアンケートにいつもより熱のこもった内容が多かったことにも表れていたように思います。映画を通して私たちが現実の中で直面している課題にいかに行動していけるか考える、内省の時間となったように思います。こうした時間、あるいは”場所”を、芸術祭の中で作れたことに意義を感じました。
今回のプログラムを通して、映画が人によって生み出された創作物であることに立ち返るとともに、私たちが生きている世界にこの映画を分解することができたと感じています。
レポート: 黑田菜月(ラーニング チームメンバー)、村上慧(ラーニング チームメンバー)
写真: 三浦知也

















